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Satellite Of Digitalis Syndicate

ELLE

先週の日曜日、9月9日の夜8時、菊地成孔がラジオ「粋な夜電波」の前口上をこんな風にはじめた。

誰がどんな映画に何回涙を流そうと、それはその人の自由だ。

間違いなく大ヒットが目されている映画「ベイビー・ドライバー」特集を、ジャズ・ミュージシャンである音楽で食っている専門家がやったのだから放送はとてつもなく熱かった。
それはさておき。

自分も、誰がどんな映画に何を思おうと自由だと思っており(そんなことはあたり前だけど)、実をいうと趣味が合う友人は少なく、「価値観の合致」に価値を見出せないタイプの人間だ。

つまり相違があってくれた方が人生楽しいという、そういう人間。

映画でも書籍でも自分が自然と選ぶものは幅が限られており、大袈裟にいえば自分のちっぽけな箱庭に異世界を運んできてくれるのは、いつだって価値観の違う友人や恋人やアカの他人だという価値観。
オノレの享楽という「享受」を中心に世界がまわっている箱庭の住人。

だが、ポール・ヴァーホーヴェン監督の最新作「ELLE」については、合言葉としては「偏狭でいこう」だった。
この映画についてだけは、観て、意味がわからない、価値観が共有できない、そういう相手とはもう距離を置いていいと。

誤解を招かないように書くと、興味を持たずわざわざ観に行かない人は別にかまわなくて、あえて観た上でまったく違う思いを抱くような、たとえば(この映画は受け入れられない)とか、そういう御仁がもしいるなら、もう自分のそうそう将来のグリーンマイルが何十年も余っているわけでもない寿命からいって、関わるのは無駄だ、と「線を引こう」と待ちかまえた気持ちで観に行ったのだ。

大袈裟な話に見えそうだが、風呂敷を広げすぎるほどには人生が余っていないところへ「これでなら線引きをしても良い」と思える映画の予告が現れた。だからそうする。それだけだ。

映画「ELLE」はたまたま僕の人生にひょっこり現れたパイロンだ。ここから先入るべからず個人の領域。工事現場のトラテープでも良いけど(笑)まぁ赤い目印の三角パイロン。

映画も書籍もレビューは苦手中の苦手なので、ストーリーをうまく「まとめる」ことも、ネタバレを謙虚に回避することもしない。観た人でなければきっと意味も通じない、ただの誰かの日記・雑記程度の文章になるが

他の映画を観に行ったときにまず「予告」を観た。
これは観たい、きっと観なければ、と思っているときに映画評論家の町山智浩さんが「映画ムダ話」で解説を配信しているのを知り、ダウロード購入して聴いたので、おおよその粗筋は頭に入っていた状態で観ている。

だからまぁミステリーの部分、犯人は誰だろう、というヒヤヒヤ・ドキドキはなしで観てしまった。
だがわりと鈍いので、そっちに気をとられると全編が頭に入ってこないくらい夢中になってしまうので、初見なのに筋追いにとらわれない二度目観の感覚でも後悔はなかった。

たとえば家の前に「ルノー」が停車しているだけで、ドキドキする、怯えるなんて滅多にない場面だと思うが、そこはブルブルしないで済んでしまうとか弊害はあるよね、粗筋を知っていると。
あはははは、ルノーだ。とずいぶんとピントの外れた鑑賞だ。

ただ実際スクリーンで観るまでは、なんであんな気持ち悪い男が前の亭主なんだ、趣味が悪いのか?と思ってた息子の父親の目は、唐辛子スプレーをかけられた後で赤く腫れ上がっていたから気持ちが悪かったのか、とわかった。

ポール・ヴァーホーヴェン監督が好きだという「強い女」と「どうしようもないダメダメ男たち」という基本設定。

観たら、僕は案外と覆ってしまった。

たしかに強姦された直後に、いきなりデリバリーサービスに電話をかけて寿司を注文するのは異様な感じかもしれない。
「それからハマチを二つ」

でもこれ息子が訪ねてくる日だとわかっているから。
彼女が何事もなかったように振る舞いはじめるところからスタートするのは、すべて一人息子のため、なんですよね。
だから別の日だったら、別の状況、別の「絵」になっていた。

何事もなかったように、割れ物を片付けはじめるシーンではなく、むしろ苛立って悲嘆にくれて、そこらじゅうの物を割りまくるシーンが現実だったとしてもおかしくない。

観た人のほとんどが「強い女」ミシェルとして今は評価している風な主人公を、二時間前後椅子に座って眺めていて、確かに強いは強いんだけど、僕の中に湧いてくるのは、強すぎる父性・・・という

もうむちゃくちゃな表現だけど、壮大な「とと姉ちゃん」なのだった。

いやはや。観てなかったくせに連続テレビ小説のタイトル拝借してごめんよNHK。
でもそれが率直な感想で、この人は父さんであろうとした姉ちゃんだ、と観ながらにして浮かんできたんだ。あれ?「とと姉ちゃん」だよね、と。

つまり父親を早くに失ったから、妹たち、ひいては母親のためにも父親であらねばならなかったのが父さんで姉さんの「とと姉ちゃん」と僕は情報として知っていたんですが、ミシェルは少女の頃に、狂信的な犯罪を犯した父親が刑務所に入り、犯罪者の娘として世間に蔑まれながら育ったという境遇で、映画の現在進行形では、実母の生活も息子の生活も全部が全部、彼女の収入でまかなっている。

明るく健気なとと姉ちゃんではないし、妹も弟もいないけれど、スクリーンから立ち昇ってくるのは、僕にはどうしようなく強い父性に見えました。
そして我が邦の悲しき父親族ではないけど、金銭的に家族を守ろう、甘やかそうとしてるわりに、家族に理解されずに責められてるかのような姿も、女性でありながら、父親の姿とオーバーラップする。

映画のつくられたフランスでの父親の立場、立ち位置を知らないので、ここは少し日本人の家庭に育ったゆえの思い込みあるかもしれませんが、僕には 彼女=ELLE が、女ではなく男、しかもあり余って邪険な扱いを受けている父性の塊のようにずっと観えてしまった。

しかも、ダメダメな元旦那の交際相手に無駄と思えるほどの嫉妬をしたり、なんというか元旦那に対するツンデレとか、どう見ても、まだ愛していて未練たっぷりというか、執着しているというか、そこは完全に女性の顔でもある。

予告から、きっとこういう映画でこんなヒロインでと想像したものと、さらに評論を聴いて(おぉ間違いなくそうみたいだ)と補強していったもの、その全部が良い感じで覆っていった。

寂しい女性でした。

裕福な住宅街で、向かいの家はクリスマスの飾り付けが煌々と灯っている、その向かい屋に、大きな広い敷地の立派な門だけど、灯ひとつ灯っていない屋敷にミシェルは帰宅する。その対比。

母親に買い与えているマンションに訪ねて行けば、若いツバメが我がもの顔で同居していて、母には急に入って来るなと言われ、さらには監獄にいる父親に逢いに行くように諭される。

息子の賃貸アパートにも金銭援助をして、しかしそれは息子に干渉するための方便であり、引越し先に様子を見に行くと、息子の同棲相手にぞんざいに扱われる。

というか、息子自身も彼女にぞんざいに扱われてて(笑)

この息子の恋人ジョシー役のアリス・イザースという若い女優さんがめちゃくちゃにキュート。
主役のイザベル・ユペールに対して、画面上とはいえここまで怯まずにいられる女優さんを探してきて演出して、というのは流石フランス映画と感嘆しました。

そして、いちばんとんでもないのが、まず息子ヴァンサンと恋人ジョシーは「できちゃった引越し」がストーリー中の出発地点なんですね。もともと同棲してたのが、子供を育てるために少し良い環境へ引越しをする。その相談というか報告に息子を来させる日が、ミシェルが強姦された日の同じ夜で、やがて赤ん坊が産まれるが、肌が黒い。

出産祝いに駆けつけたごく身内の輪の中に、息子たちの親しい友人として若い黒人が普通にいて、誰がどう見ても、親父はあっちじゃん!とわかる。わかるはずなのに、息子もジェシーも「自分たちの二人の子」と平然と夫婦ごっこをしている。

それに誰も異を唱えなくて、ミシェルだけが自分の息子のバカさ加減が理解できない!と苛立ちを隠せず、ピリピリしている。

ブラックユーモアとしか言えない場面で、肌の黒い子供を抱いている若い女性と、その女性に甲斐甲斐しく振る舞うミシェルの息子を観て、館内で笑いが漏れるシーンです。

でも、違った。

おさらいします。僕は予告を観て、解説を聴いて、どんな映画だと思ってこの映画を観に行ったか。

強く生きてきた齢50代後半から60代前半の美しい女が、近隣に住む品の良い男 ーただしその時点ではマスクをしていて誰かわからない男ー に強姦される。
彼女は強姦されたことを周囲の人々に平然と報告し、警察に訴えることを勧められるが、過去に大量殺人を犯した男の娘であるため、警察にも世間一般にも不信感のある彼女は告発をせずに自分で犯人探しをはじめる。
ここがミステリー部分で、登場人物の男すべてが疑わしい。

しかし中盤になって強姦者が誰かわかったときには、ミシェルは近隣に住むその男にすでに惹かれていた。
そこから二人の合意の肉体関係がはじまる。

合意のない捻じ伏せられる強姦には報いを受けさせたいが、自分が選んだ場合は、まぁたとえおかしな性的嗜好のある相手でも誘惑するし、合意の交渉をすると、そんな風に思ってました。
ただ相手は暴力で捻じ伏せることにしか嗜好が向かない問題を抱えた男なので、その先はどうなるのかな、と。

要は、強姦被害者だから可哀相、では済まない映画だとそういう観点で観に行った。
観客が、彼女の自主性を自立性を、もっと言えば性を、どこまで尊重できるか、試されるんだろうと。

物議を醸すと聴いて、おぉう物議を醸した場合には、この映画についてはすっとぼけずに立ち位置明確にするわ、線引くし門も閉ざすかも知れねぇなとそんな気持ちで観に行ったが・・・

ELLE=彼女 が誰のことだか、わからなくなりました。

ミシェルは主役でもちろんELLEは彼女なんでしょう。しかしこの映画、彼女たちすべてが、目を惹く彼女・単数なんです。

先に書いた息子の恋人ジェシー
元旦那の交際相手エレーヌも若くてソフトなイメージで魅力的だ

ミシェルの母親役も、強いミシェルが霞みそうになるくらいアクの強い老美女で、ある意味やりたい放題。
自分はミシェルの扶養で若いツバメを囲いながら、大犯罪者の父親を理解しろ、親子の縁は消えない、などなど勝手なことをいう母親。
(勝手ならまだいいが、そこにある種の含蓄があるのが、娘としては逃れようがなくて苦しいだろう)

それから強姦犯の妻であるレベッカ、敬虔なクリスチャンらしき美女で隣人
ここまでで、5人の女性を挙げてますが、6人目は、ミシェルが経営するゲーム会社の共同経営者「アンナ」

アンナの亭主が映画の中ではミシェルが縁を切りたい厄介なセフレ。

このアンナはかなり親しい友人、長年の親友ですが、知り合ったきっかけは息子を産むときに同じ病室で、ミシェルは息子を授かったが、アンナは死産で、その後ミシェルの息子ヴァンサンの乳母をしてくれたという。

そしてミシェルが息子のバカさ加減が理解不能!と怒っているときに、アンナはヴァンサンに甘くて、肩に手をかけて二人で歩いて行くシーンなどがある。

ミシェルは実の息子の気持ちがわからないのに、アンナはうまく接することができる、理解できると、元亭主に愚痴っぽくこぼしたりして、不思議な三者・四者の関係がだんだん情報として伝わってきたあとに

ミステリー部分の隣人・強姦魔・パトリックは罠に嵌めて粛清します。

それに腕を奮う息子は、それ以前に、恋人と喧嘩して同棲先から家出してくるのに赤ん坊をさらってきている。
安易な理由でバイト先を辞め、子育ての役に立たないと彼女に見限られたのに、あきらかに他人の子供である赤ん坊を、裕福な実家にさらって逃げて来る。
恋人のジョシーは鬼の形相で「あたしの子」を取り戻しに来るんですが・・・

そのことをきっかけに、ミシェルは彼の振る舞いがすべて「子供のためだったのね」と悟っているのです。
息子の言葉で語られることはないが、自分が彼女と愛し合っているときにできた赤ん坊を、彼は、純粋に、生物学的な意味ではなく、自分たちの子供・・・と、無理をするでもなく、頭が足りないからでもなく、本当にそう思って庇護したい男なのです。

経済的な甲斐性があろうとなかろうと、本気で、微塵も迷いなくそのように考えられる男を育てたのは、誰か。

経済的にはミシェルであり、精神的には、アンナとミシェル。と、資質としては優しい元旦那の影響もあるかも知れない。

ろくでなしのダメ息子だと思って観ていたヴァンサンが、最後の最後に、んんん・・・? という存在になる。
ミシェルの父親のような狂信的な要素が、こんな形になったのか? とも思いましたし
浮気はしても、一度手をあげて離婚したにしても、ミシェルに今も愛されている元旦那の血か? とも思いましたが

育てたのは、ミシェルとアンナ。

映画終盤、新作ゲームのリリース成功を祝うパーティーで、ミシェルの成功を全身で喜んでいるアンナに、ミシェルは彼女の亭主ロベールと不倫を続けていたことを告げる。
なぜ自分の亭主なのかと問いかけるアンナに、たまたま、と返事するミシェルは、本気で周りにテキトウな男がいなかったから、あんな男にハマったんだろうなぁ、はわかるので「正直に」答えている。
もっとマシな相手を見つけたときに関係を終わらせ、だが正直になるべきだと思った遅れたタイミングで、アンナが亭主に女の影を感じて悩んでいるから、暴露しただけ。

さて、ラストシーン。

ヴァンザンの実家であるミシェルの家、大邸宅に、ジョシーと赤ん坊も一緒に暮らしています。
元旦那は若い女性と別れて、復縁はしなくても、赤ん坊のお爺さんとお婆さんとして、同じ家に集まっている。
ミシェルの父と母はそれぞれ老齢の結果として亡くなり、ミシェルに重くのしかかっていた呪いは、解けている。
墓参りの決別につきそうアンナは、きっぱりと、亭主を捨てたわ、とミシェルに寄り添い

あなたの家に私も押しかけていいか、というようなセリフを笑って言う。

あなたと一緒に暮らしたいと、アンナが微笑み、二人の女が笑いあって並んで歩いて行く後ろ姿が最後。

素晴らしい映画でした。

ミシェルの妻は、アンナじゃないか。
ずっとずっとそうだったのだ、とミシェルの父性に並べられたアンナを観て、僕は満足のため息を吐いた。

彼女、ELLEは、アンナじゃないのか? と。

一つの家庭に一つの命を吹き込み蘇らせる天使としてはジョシーも「ELLE」の称号にふさわしいのだけれど、やはりラストシーンで二人並んで歩き去るアンナの存在は、救い、としか言いようがなかった。

向かいの家は、主人が亡くなったあと、レベッカは大きな引越しトラックで去って行く。
妻レベッカは旦那の性的嗜好を知っていて、ミシェルに礼を言う。
ある時点まで彼を理解して許容してくれてありがとう、と。

クリスマスの飾りが華やかだった偽りの家庭が消え、向かい側に、実に賑やかな不思議な家族が、パタンと本のページを捲ったように、道路を挟んで移動します。

あなたたちと、みんなで一緒に暮らしたいわ。とアンナは言ったのかな。

字幕を忘れてますが、すべてが正直に表に現れたとき、ミシェルの生涯の伴侶はアンナに観えた。
僕にはそういう映画でした。


9/24 追記

記事を書いた数日後に気づいた、というか知ったんだが、性的嗜好、ではなくこの場合は指向、なんですね。
嗜好だとフェティシズムに近い感覚になるのか、しかしフェチと気軽に呼ばれるものも病的な性的倒錯も含むらしいし、このあたり、まったく理解していない。
というわけで、漢字を箇所箇所で直すのはやめました。

この作品の場合、意味の区別もついてない人間が書いている文章、と、わかる人(区別のつく人)には区別がつくままにした方がいいと思いまして。

気づいた経緯かな、直接ではないけど、LGBTの話題を見ているときに、これからのLGBTはLGBTQが向かう方向なのだと読みまして、Queer (クィア)は俳優のエズラ・ミラーが自分で言ってたので言葉だけ知ってましたが、正式にはQuestioning(クエスチョニング)の略称らしい。

そういうのを読んでいるときに、あれ?自分の書いた「嗜好」じゃなくて「指向」かな、と思ったりしたが・・・
暴力的な性交渉じゃないと満足しない・・・やっぱり「嗜好」か?

と、そのまだ分かってないあやふやはともかく。ELLEってきっとLGBTQを考えさせられる映画でもあったのかな、と今日になって思いました。

他の人は特にアンナに注目してる風なレビューまだ逢ってませんが、Qのジェンダーフリーをアンナとミシェルに重ねると、僕のたわごとに近いかも知れない、本当の恋人たち、夫婦、そんなに突飛な見方でもないでしょう? という追記で終わり。

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