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Satellite Of Digitalis Syndicate

「花に染む」感想 – ならず者と4桁の数字

「羊たちの沈黙」の連作「レッド・ドラゴン」で、ウィル・グレアム捜査官一家が連続殺人鬼に襲われる直前の描写で、ウィル・グレアム夫婦が、同じ目線のキス・同じ身長の二人であることが強調されていた。

翻訳小説は、髪の色がブルネット・ブロンド・レッドと、主人公が恋をしたり夫婦になった相手の女性の髪の色が、その女性を讃える要素として書かれることが多く、目の色も同じように、グリーンやブルーの瞳で見つめ返してきたと、描写される。

いわゆるフェティシズムの表現として、匂いや声という紙に書き出せない要素より、色が生きてくる。肌がやわらかい、声が美しいと書かれるよりも、物語の中にいる男が、たとえば赤毛や、背の高い女に、自分だけの価値を見出しているのが、ダイレクトに伝わってくる。

「レッド・ドラゴン」の場合には、たしか赤毛の妻を愛しているウィル・グレアム、妻に傾倒しているとも言える愛妻家と、背中に「レッド・ドラゴン」のタトゥーを彫っている殺人鬼が、深淵を覗きこめば、鏡のように「限りなくシンパシーを覚えうる」二局・二者の対として暗示されていた。


「花に染む」最終回で主役とヒロインが抱き合っている二人立ち姿を見たときに、僕が思い出していたのは「レッド・ドラゴン」の夫婦みたいで、このカップルは好きだな、美しいな。という単純なものでした。

ウィル・グレアム夫妻の場合は、妻の背が高く、夫が特に背が高い男ではないからこそ男女・夫婦が同じ身長になるという構成で、対等に愛し合っている夫婦が「絵」として強調され、夫は自分と対等な位置にいる女性への愛慕を長々と独白し、自分と違う髪の色に惹かれ尽くしている描写のあとに、かけがえのないものを失う。

「花に染む」の主役・圓城陽大の場合は、花乃と同じ身長ではなく、とっくに年上のヒロインの背を追い越しているのだが、少女漫画で背の高いヒロインが男のフェティシズムの対象として描かれるのはめずらしく、個人的に背の高い女性がわりと好きな僕にとっては、その絵・構図がシンプルに美しく感じられた。

負けたと思った ー と一枚の縦型原稿を対角線で二つに割り、水野楼良という失恋した女の子と、結ばれた二人を対称的に描き出した印象的なシーンで、僕のような単純な読者が思っていたのは(水野、ちっちゃ。水野楼良ちぃせぇな)

その構図があとになって、腹にズシリと響いてくるとは、最終回を読んだ時点での僕は気づかない。

ただ背の高い女の子がわりと好きだという個人的な嗜好で、絵を気に入り、少し似ていた小説を思い出し、大団円に満足して、別の作品へとすぐに嗜好の矛先は移り変わっていく。


だが「花に染む」は、作者がわざと完璧なラブストーリーに虫食いを残した。まるで障子に指で穴を空けるみたいに、規則正しいマス目のグリッドに所々、円の形をした穴を空けた。

主役のフェティシズムは、長い黒髪の背の高い幼馴染に、出逢った瞬間から一直線に向かっていたのに、何が物語を屈折させたか、時間があるなら見極めてご覧と迫ってくる。時間の捻れを元に戻すことを、ミステリーとして読者に要求してくる構成になっていた。

「時計」と光の「屈折」という二つの答えに行き着くまで、主役とヒロインにかけられた「呪い」の意味がわからない。

ミステリーの謎解きなど、どうせ巻末近くから探偵が披瀝してくれるから(する必要もなし)と、一度も挑戦したことがない読者が、探偵の登場しない物語に放り出され、仕方なく後追いで物語を遡って逆追いする羽目になった。

池の鯉が、瀧を遡りして龍になるゲームにハマったことがあるが、まさにあれと同じく「レッド・ドラゴン」を連想していて、さほど的は外していなかった。


主役とヒロインの「体」だけを見れば、呪い文句は「腕っぷし」と何度も文字で書かれていた。主役のセリフとして。彼のフェティシズムとして。

市川崑の「横溝正史シリーズ」映画のような雰囲気で、僕を惹きこんだ初回の「花に染む」に戻ると、男女二人が対等でありすぎたことが「呪い」の核になっている。

主役の少年は小学生で流鏑馬の射手をつとめる身体能力の高い子どもだが、隣家の畳屋の娘は、教室の天井に近い高窓に、足場もなしで腕力と脚力でよじ登ってみせるような「力持ち」として二人は出逢う。

神社の火災が起きた夜に、主役が、年上の少女の腕をふりはらって、兄や両親を追いかけられる力があったなら、あるいは少女が年下の少年にたやすく突き飛ばされるような非力な少女だったなら「体格差」や「力の差」が拮抗せず、男女それなりだったなら、ありえなかった「呪い」の悲劇。

救いもまた、少年がやがて年上の少女より身長も腕力も追い越すときがくる、その成長とともに描かれた。
自分には「弓しかない」と兄に語っていた少年が弓を射る「腕っぷし」を磨き続ける様を、「射法八節」という弓道の姿勢、彼の弓道精神にあわせて淡々と描く。

少年が中学生になって「花染町」という現世の町へ戻ってくる姿は、

ティーンの女王がボンバーズに誘拐された!
忘れえぬ恋人を救出すべく「ミステリアスな瞳の男」トム・コーディが帰ってきた!

青春映画の金字塔「ストリート・オブ・ファイヤー」(1984年)のフライヤー・ポスターとそっくりな構図で、彼が肩に乗せているのが長いライフルではなく弓、という差。最終回の二人の抱擁も、同映画のメインポスターとよく似た構図。

暴走族も愚連隊も登場しないが、攫われたのは二十歳になった主人公の過去の「恋」で、主役はかつて自分に向けられていた正しい「恋」を取り戻すために、弓を射つづける。

「ストリート・オブ・ファイヤー」の見どころであるヒーローの「お姫様抱っこ」は、もう一人の隠れヒロインにあてられ、現代の西部劇といわれた青春映画に「古事記・日向神話」の天孫と妻になる姫を暗喩として覆い被せ、探偵・金田一耕助になれなかった読者でも、言葉遊び一つで、主役と主人公が結ばれたことだけは確信できる仕立てにもなっていた。


激しい雨の中でのキスシーンはなく、しかし「雨の日」に車窓という「鏡」を通して主役に魅力を感じた水野楼良が、鏡の中という異世界に飛び出すことで「冒険」をはじめ、彼女自身が鏡のように、男の主役の「体配」という肉体の象徴を真似ることで、主人公の屈折した「心」を呼び覚ます。

どこにでもいる「ふつうの少女」らしく、ただ恋した少年の姿が、隣の神社に帰ってくる日を待ちわびていた少女・宗我部花乃の心を、みんなでよってたかって取り戻す。

だが、真のヒーローは「鏡」という女の子たちが大好きなアイテムを利用し、主役の鏡面をつとめた「無償の愛」を武器にした女性典型のような水野楼良。

二人のヒロイン、女性であることがそれぞれ災いとなったヒロインたちを救ったのは、最終的には、絵だけを見る僕が(水野、ちっちゃ。水野楼良ちぃせぇな)と感じていた女性の象徴のような腕の力も体力もなかった女子大生。

「ミステリアスな瞳の男」圓城陽大は、療養先ではライフルもどきのオモチャの銃も撃ちまくり、弓も射ち、女の心にかなう言葉探しも辛抱強く続けたが、最後は意外すぎる棚からぼた餅で、彼が利用した女子大生の贈り物をありがたくいただくことになる。
半ば呆然としながら、彼は彼のフェティシズムの対象を抱きしめて幸福に浸る。
相性の良い黒い馬のような女の子。
陰陽太極図のようにしっかりと結びつける彼だけの月。
彼だけを生涯ただ一人の恋人として選んでくれる女を、女性の力を借り、女性の妙技で取り戻す。


「ストリート・オブ・ファイヤー」のラストシーンは忘れてしまったが、ティーンの女王である歌姫・エレン・エイム (ダイアン・レイン)は、客で充満したステージに戻り、流れ者の元恋人はそれを見届けた後でまた町を去っていくはずだ。

流鏑馬で五穀豊穣を願う圓城陽大を、日傘をさした水野楼良が観衆の中で見届けるのは、彼女が「花染町」で生まれた真のヒーローだからだろう。

雨の中で泥だらけになるのも、肉体を酷使するヒーロー役も、求めるのではなく待っているだけの可愛い女で良いと、宗我部花乃の過去の存在意義を肯定するのも、水野楼良。
「鏡の国のアリス」と「不思議の国のアリス」に見立てた「花染町」を読み解くためのルールブックは「asエリス」

エレン・エイムの「エ」+「アリス」か「絵」+「アリス」
エレン・エイムを演じた女優の名前はダイアン・レイン。雨。

水野楼良は「おしかけ彼女」ではなく、主役と期限つきの契約交際をしていた元恋人。

果たしてこれで、水野楼良は、主役である男の「代役」だと言えるのか。


ここまで描かれて、ゲティスバーグの演説を思い出さずにいられる能天気な男がいるだろうか。

Government of the people, by the people, for the people.

人民の、人民による、人民のための ー を People = Women | Female「女性」と置き換えれば一行で説明できるようなアイロニー。

主役の腕の力が実質不可欠なのは、中学生で死者の花嫁でいることを選んだ従姉・圓城雛を、花婿代理として「お姫様抱っこ」する場面だけである。
まだ読んでいない最終章だが、そこだけは男でなければできない、と思う。

僕の相棒である女性が、瓶の蓋さえスムーズに開くなら男はいらないと、皮肉か冗談か本音かわからないことを言っていた。
不要品扱いされるのも癪なので、高い場所にあるのものをとる役は・・・と問えば、それは脚立で足りると即座に返された。
と、なると、僕も要らないということでしょうか、と笑いながら食い下がってみると、さぁどうだろうと首を傾げ、世の中には瓶の種類が多すぎるんだよね・・・と考え込むように腕組みしていた。

その先の答えは、聞きたくないというか、出してもらいたくないというか、巻き込まれたくない禅問答だ。


圓城陽大が、腕の力を見せつけた場面がある。

親族として雛の嘘を隠しながも憎み、花乃が、雛さんも子供だったし同情する余地も・・・と庇うのを、遮るようにテーブルを殴る場面だ。

「駅から5分」の最終回では、沢田陽生の腕を なんだ こいつ すげー力 と思わせる力で掴んでいた。

ギリギリだなぁ・・・と思う。

圓城の「城」はどんな意味でつけられた姓なのだろう。
圓城陽大も圓城雛も長年想い続けた「忘れえぬ人」を追い求めていて、水野楼良の「お城に入れて貰った人達」だそうだ。

ここまで考えたときに、僕は「花に染む」の裏側に潜む闇に飲み込まれそうになった。
作品の外にあるインタビュー情報など、諸刃の剣になる。
特に犯罪者と「限りなくシンパシーを覚えうる」ような人間は要注意だ。

翌日には間違いだったと思い込み、安堵し、その翌日には再び間違いではなかったとテレビニュースで知ることになった。

いつだったか著者が「駅から5分」と「花に染む」を描いたきっかけには、実際にあった事件への「怒り」が背景にあるのだと読んだ。
伝聞読みなので、詳しい内容は知らないし、この先も語られることはないだろうと思う。

頭の中は好きなだけ使えるよ
「恐い」と思うのも きみの力だ
それを どう使うかは きみの想像力次第だ

想像したくない。

水野楼良の名前は「蜃気楼」という光の屈折を指していた。「鏡の国のアリス」と「不思議の国のアリス」を橋渡す「キーパーソン」として鍵穴の中に描かれた小柄な姫。

彼女のお城に入れてもらえるのは、圓城陽大がただ一点、暴力的な力の行使をしなかったからだ。
小学生時代には拮抗していた腕力が、時間を経て、女性の花乃をうわまわっても、彼はその力を使わない。

婉曲であること、が「花に染む」の主役をつとめられる唯一の資格だと思えてくる。

ミソジニストの典型みたいな僕が書いていたこと、思っていたことが、この作品の逆にある「鏡面」で「巫女の鑑」とは真っ向反対にある。
いいから既成事実つくっちまえ。

男と腕の力が拮抗してる女性に、これをして本気で抵抗されたら、どっちも怪我する。
そういう絵図はすぐに浮かぶ。それが相手が水野だったら、腕の力は拮抗してさえない。
それから彼女の言われよう・・・

よく簡単に食いつけるな
通りががりの素性も分からない奴に

作中ではこの扱いだし、作品を離れても、イタくて節操がなくてストーカー気質でと酷い言われようだった。
それが今では、作品のために都合良くできすぎた聖女か、と。
まるで「マグダラのマリア」だ。売女か聖女か。キリストの妻か母かと大騒ぎ。

水野楼良は、何のために登場して、誰のために無償であそこまで尽くしたんだろう、という闇にはまりそうになった。
現実世界で女性が被害者となった事件ではかならず見かける、過剰な擁護と不当な攻撃。
疑心暗鬼になりすぎて、水野楼良のモデルになった女の子は、今、生きていますか、という「恐い」想像へまで辿り着きそうになった時、

「城」という単語に救われた。

お城で黄色いリボンをつけた少年を見た・・・僕がなんとなく憶えていた歌詞はそんな風だった。
引用させてもらった訳詞とはずいぶん違う。
ただ昔、MTVで字幕読みした歌詞は、黄色だったと思うのだが、まぁそこはスルーで

階段にいる猫のように
彼はその瞳に
王子の炎を映し出し

祝祭を始めるわ
心に火をつけましょう
不安でいっぱいの
傷ついた心の者達のために踊るの
祝祭を始めるわ
見捨てられたり
心を痛めた者達のために踊るのよ

水野楼良が学祭のフォークダンスにこだわった、そのままだった。
三本立て、なのだ。
花乃には「古事記・日向神話」の炎をパロディにあて、水野楼良には「ストリート・オブ・ファイヤー」の炎と雨とヒーローを。
そして圓城雛・陽大には「ぶた飼い王子」のパロディと、「花染町」の「ハートの女王」を。


まず、水野楼良を「キーマン」と過去に書いてきた僕の語彙・感覚が間違っていた。
キーマンではなく、キーパーソン。

ー 英語 key person は、以前には keyman と呼んでいたものを性差的なポリティカル・コレクトネスに配慮して言い換えたものである。

著者は少女たちのために創られた「アリス」連作になぞらえて「対」の二作を完結させた。
この物語をすべてが「そらごと」の暗喩・隠喩・メタファーとして見直せば、僕は能天気な「少女漫画好き」な読者のままでいられた。

花染神社の「神様」は、おそらく少女漫画の神様。
神様にお仕えするために、少なからず何かを犠牲にして生きてきた、作者くらもちふさこが「雛」だとも言える。

圓城の姓で雛と対の陽大は、いわばロマンスの神様。
作者に「利用され」作者が描くことで、生業とし糧としてきた男性像の象徴。作者の分身でもある。
花乃に笑って欲しかったのに、「えー? 泣いてる?」とトボけたことをぬかす男も、作者の代役。

「花に染む」の最終回で涙を流した読者も、「花染町」の全貌を見れば、笑い出す。懐かしくて、泣くかも知れないけど、作者のパロディ尽くしに気づいた時には笑ってくれる。
そして作者はいつかその日が来ることを信じている。
僕はあの人を信じていますから。まぁくんがそう言っていた。


Women | Female「女性」ではなく、少女漫画をこよなく愛する、少女漫画家による、少女漫画を愛する読者ための少女漫画の集大成。

「花染町シリーズ」にパロディとして登壇するのは、作者自身の過去の名作・名場面および、作者がリスペクトできる少女漫画の名作。
マリーアントワネットの名前が出されているから、「ベルサイユのばら」のパロディもあるかも知れない。

ただ、ジョジョラーとしては、リンカーンを意識した時点でヒヤリとして、荒木飛呂彦の「スティール・ボール・ラン」を捲りに捲って
「ゲティスバーグの夢」の表紙を確認してしまった。
薔薇の中にいた・・・よな、と。まぁここは自己満足と自己防衛だ。
「Man domain」なんて出てくるJOJO7部なだけに、「ゲティスバーグ」絡みで、あんまり漢・男した表紙だと、なんかまずい気がした。
(荒木飛呂彦、完璧。ルーシー・スティールを中央に配置した真ん中に花だった)

千場伊織は、死者の花嫁である雛を指差し「ゾンビ」と言う。
水野楼良は、花乃の城に無理やり入って行かない圓城陽大を「プリンスライン」と呼ぶ。

放火事件、炎はもちろん関係ない。炎の暗示するものは、作者の怒りの炎だったのか、創作への情熱の炎か、あるいは「元始女性は太陽であった」と「青鞜」を書いた平塚らいてうの対極に位置する女性蔑視の代表作家が、「炎」と「火」に纏わる二作品を遺しているからか。
と、作品の外にある雑音を拾い上げても憶測にしかならない。


沢田陽生が指し示したとおり

始めは目につくもの手当たり次第カードに並べてたんだと思ってたんだけど
それだけじゃない気がしてきて

カードを並べ替え、2枚ずつペアをつくり札を消していくと、残ったのは

男と同等、対等な腕の力を持っていた少女を物語の「大前」に据えた「花に染む」で
作者の分身とも言えそうな主役を差し置いてヒーローを担った女の子は、男の気を惹くような服装どころか、怯ませるくらいの傾奇者な衣装で
女性であることが災いとなったヒロイン二人と、三人立ちする射手としては「中」に立ち、主役の流鏑馬を見届けてフェードアウトする。
三人立で「落ち」をつとめた圓城雛は「花染町」の女王であり、死者の花嫁。

「自分にはご遺体に遺品を並べているようにしか」と水野楼良に言う主役は、物語の中で三人の女性の「対」であることにしか意味がない。

男は、お飾りのお人形。
主人公は、三人の女性。

主役は、いつでも暴力装置になりうる男の腕の力や体格差だけを示せればいい、絵。
言葉遊びなら「力持ちなんだね」を「くらもちなんだね」と読みかえて笑ってもいい。
主役がほとんどの場面でジャージ姿でいるのもご愛嬌。
少女漫画家はたしかに「プリンス」製造ラインの職長や工場長だと拍手してもいい。


ただ、何故「謎解き」の仕掛けを抽象的な隠喩、メタファー尽くしにしたのか、僕はそこだけがわからなかった。

謎を解いて欲しいのは、女性読者が大半のはずなのに、どうして「男の方が解きやすい仕立てにするのか」と。

脳に性別はないと研究結果が発表されていて、そうだろうよ、と思っているくせに、何故「男の方が解きやすい」と考えるのか。
これが似非フェミニストのジレンマだった。

男が解けば「主役の男は、お飾りのお人形」と行き着く仕掛けに、作者の悪意を感じかけた。
その考え方そのものが、ならず者の最後の砦だ。

昭和の時代には、ロマンスグレーで小綺麗な仕立てスーツを着た地位のある男たちが、最後にはいつも言っていた。
「女性は抽象的なものの考え方ができないので・・・には向かない」

それが愛娘をことさら大切にしていたり、誰の目にも愛妻家であったりする男の口から発せられる。
向かない職業は、政治家、経営者、芸術家、建築家、指導者、聖職者、と何にでも置き換えの効く、物柔らかで冷たい究極の差別用語だった。

その時代を思い出し、見ろ、おまえら全員これを読んで、この女性作者の前で、誰が、抽象的なものの考え方ができない、などと言えるのか。恥ずかしくないのか、と苦しかったですよ、僕は。

コウモリだから。

くらもちふさこは、力がある。
そこらの男が怯むくらい抽象的なものの考え方に秀でているクレバーな女性。
そう思いながら「脳の性差は実際には存在しないこと」を無視して、何故と考え続ける。

そんな時代遅れの男たちへの仇討ちのために描かれたわけじゃなかった。

三人の女性ヒロインには、一人の女性の特徴を三つに振り分けて描かれた。
その女性が「数字の語呂合わせ」が好きだったから、言葉遊びや隠喩やパロディがちりばめられている「鏡の国のアリス」を選んだ。

少女たちのために書かれ、出版された「対」の二作の上に、まだ「ストリート・オブ・ファイヤー」があって、水野楼良こそが本当の主役だと気づいたとき、彼女が小柄で女性らしく、「蜃気楼」であることが恐くなる。

「花に染む」はそこまでで、いいのです。

この先は、感想文でもなんでもありません。

「花に染む」を三人の女性たちが、それぞれの形で救われた物語として終わらせたい人は、読むべきではないと思う。

ここまで引きずっておいて、特に女性は読むべきではない、としたら卑怯なのだが
松田翔太も、映画「ハードロマンチッカー」の舞台挨拶で女性にはお薦めできない
気持ちが悪くなったら席を立って、出てくださいと言っていた。

作者は、死者の花嫁役だけは、他の誰にもさせられないと自らを演じています。

「花に染む」は女性たちがすべてを読み解いたら、作者の愛を感じるもの。

男が読み解き終えた場合には、体中に作者の棘を感じる。
そのように描かれて当然のものでした。

名は体を表す。

少女たちに名前を覚えて欲しいから平仮名で「くらもちふさこ」

彼女の城は「少女漫画のお城」
たとえ作り物の「そらごと」であっても、夢と勇気と希望を贈りものとして受けとり、明日を笑って迎えれば

そこまでで、いいのです。

2016/12/19 月曜日 午前11時

三人の男たちが、一人の女性を攫い、殺害した「闇サイト殺人事件」のニュースが再びテレビで流れていた。
僕は、水野楼良のモデルになった女性が、すでに殺されているのだろうという「闇」を感じていたから、そのままテレビ画面を見続けた。

主犯の姓が「神田」

男たちは、銀行の暗証番号をなかなか言わない娘に対し、5分間のカウントダウンをして脅しました。

母親は娘の顔の青痣を少しでも隠してあげたいと思い、母親の姉と二人で死化粧をしてあげたが、その娘は白無垢をまとった花嫁のようだったという(母親には「解剖の痕を隠すように頭を覆った綿のようなものが綿帽子に見え、死装束が白無垢に見えた」という)

彼女は体を震わせて暗証番号を教えた。

三人の被告は彼女を殺害した後に、教えられたカードの暗証番号で現金を引き出そうとした。
だが、その番号はウソで、引き出すことはできなかった。
銀行などで3度引き出そうとしたがうまくいかない。
「まさか、あの状況で嘘をつくとは」と、三人は唖然としたという。

番号は「2960(ニクムワ)」としており、母親は被害者の娘さんが
数字の語呂合わせが昔から好きだったことを明かした。
死を覚悟した彼女が最後の抵抗としてのウソだった。

母親は「殺されると覚悟していたから。むざむざお金までとられたくないと思ったのでしょう」と話す。

事件後、マイホームを買い、母を喜ばせたいと計画していたことを娘の友人から聞いた。
数年前の光景が浮かんだ。「お父さんとの約束で果たせてないのはマイホームだけだわ」と一人娘にこぼすと、目を細めて笑ってうなずいていた。

「数字の語呂合わせ」が好きだったと、遺族が語った女性は三人の男に拉致された。

著者が「神」にこだわった理由も、「駒込」を「花染駅」にあてた理由も、山手線の路線図も、インターネットの掲示板も、ルイス・キャロルの「鏡の国」「不思議の国」が選ばれた理由も、すべて繋がっていく。

「闇の職業安定所」で、一緒に強盗殺人をする仲間を募集

よく簡単に食いつけるな
通りががりの素性も分からない奴に

犯人の三人の顔写真を見たら、気持ち悪さで作品の余韻も消し飛ぶ。
主犯は死刑執行済みでもう死んでいる。

たった一人の遺族である母親がテレビで
死刑反対派に「軽々しく口に出して欲しくない」というニュースで「神田」の姓を見て、闇はおまえかとご対面することになった。

俺はほとほとピントがずれているのだが、腕の力はさほどなくて、誰かを殴ったりしようとも思わない。
その前に足が出る。だから自分の腕が、暴力装置だとは、思ったことがなかった。

当分、ずっと自分の手を見下ろし続けるんだろうなと思う。

沢田陽生が、震える自分の掌を見ていたように。

彼女の恋人は、数学者をめざすちょっと変わった大学院生だったそうだ。

そういえば「ストリート・オブ・ファイヤー」の曲は、民放のドラマで「ヤヌスの鏡」主題歌になっていた。
そこは忘れていた。

わりとボーッとしてるんで、頭が・・・
作者がどこまでで「謎解き」をストップさせたいのか、判断できない。

ただ受けとったよ、2960(ニクムワ)という数字を受け取った、憎んでいいよ、恨んでいいよ、というしかない。

足袋裸足で彷徨いだすヒロインを見たときに、旦那の葬式で遺骸にすがりつく奥さんみたいだなと思いました。
体がそこにあるのに、命がないと泣くのか、魂はまだ自分の中にあるのに、体がないから泣くのか
最後までわからなかったけど、ただ、いずれ夫が亡くなったときは、この人はこんな風に泣くんだろうな、とそれだけを受けとりました。

「ストリート・オブ・ファイヤー」は、頭から離れたことがない映画です。
中学生か高校生か、まだ制服を着ていた頃に街で何度かポスターを見て、仲間に俺はこういうB級映画が好きなんだ、観たいんだと指を指して、話したのを覚えています。
二本立てで観たような記憶がある。

でも忘れられなくなったのは・・・

「フラッシュダンス」という映画が好きで、今でも時々レンタルして観る。

「フルモンティ」でも劇中映画で出てきた「フラッシュダンス」の溶接工バイトをするヒロインも可愛らしいのだが、ダンスシーンは吹き替え。
オーデション・シーンでも踊っているのは、ヒロインの代役の男。

女性用のレオタードを着て、長い髪で顔を隠して、踊るダンサーが、「ストリート・オブ・ファイヤー」では、オカマのダンサーとして登場する。

ほんのワンシーンだが、何故か悲しくてね。
ダンス映画のヒロインの吹き替えができるほど、ダンスは巧い。でも男としては小柄で、場末のダンサー役が似合う。

事件のあらましを知るよりは、
慟哭のノンフィクション 『いつかの夏 名古屋闇サイト殺人事件』を読んだ方が、彼女の人柄に触れられる。

「生まれ変わるとしたら、空とかになりたい」

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